Rassvet 歩行編

久々にお手入れする上でちょいと模様替え。読んだ本とか行った場所について買いてくつもりです。

下学上達の本棚:第4回「今日の芸術」岡本太郎

府中街道を調布方面にずーっと進み、チョコチョコ曲がって狛江から多摩川を渡ると、そこは我がふるさとの一つ、神奈川県川崎市多摩区でありますのんた。

 多摩区というと最近有名なのは「ドラえもんミュージアム」で、3Dドラえもん映画に合わせて盛り上がってるようですね。

 さてドラえもんミュージアムからちょいと歩きますと「岡本太郎美術館」というのがございまして、これは多摩区内の小中学生なら一度は見学に訪れる場所でございます。

 しかしこの美術館、ドラえもんみたいな毒気の無い美術館とは真逆。純度100%の毒をぶちかましてくるようなトンガった美術館でございます。

 ド派手な色彩、意味不明な形状、彫刻から絵画から書まで様々な作品が所狭しと並べられ、さらに表に出ると「母の塔」というバカでかい彫像がそびえている。私も子供心に度肝を抜かれ、「なんだったんだありゃ」と狐につままれたような気持ちで後にしたのを覚えております。

 

 さてそんな岡本太郎」という芸術家。「芸術は、爆発だ!」という台詞と、大阪にある太陽の塔を作った人…というくらいしかご存じない方も多いでしょう。20代以下の若者なら、知らない人の方が多いかも。

 あの「芸術は爆発だ」という台詞はどういう意味だったのか?岡本太郎の作品て何が良いんだ?

 その答えが書いてある訳ではありませんが、この本を読めばなんとなく分かると思います。

 

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

 

 

 まことに、芸術っていったい何なのだろう。

 素朴な疑問ですが、それはまた、本質をついた問題でもあるのです。

 芸術は、ちょうど毎日の食べ物と同じように、人間の生命にとって欠くことのできない、絶対的な必要物、むしろ生きることそのものだと思います。

 しかし、なにかそうでないように扱われている。そこに現代的な錯誤、ゆがみがあり、またそこから今日の生活の空しさ、そしてそれをまた反映した今日の芸術の空虚も出てくるのです。

 すべての人が現在、瞬間瞬間の生き甲斐、自信を持たなければいけない、その喜びが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。そういう観点から、現代の状況、また芸術の役割を見返してみましょう。

 (「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」岡本太郎

 

 岡本太郎が嫌悪したのは、彼が「八の字文化」と呼んだ形式主義です。

 「八の字」とは富士山を簡略化したマークです。そういうものがちょっとした工芸品の隅っこに付いている。別に何か理由があって付いている訳でなく、ただ作った者が「飾りとして富士山ぽい意匠をいれた」だけ。でも客は、「まあなんか芸術的な雰囲気があるしこれで良いや」と買っていく。そういう約束事、「こういうのが芸術でしょ」というエクスキューズを岡本太郎は嫌悪したのです。

 大事なのは作った人間の感動や感情、ほとばしるような意思の力なのです。「俺はどうしてもこの絵を描きたい、こう描かなきゃダメなんだー!」というパッションそのものが芸術なのです。「こんな感じのがウケるんやろ?どや?これがオモロイんやろ?」という風に作品を作るのは、芸術の皮をかぶった打算であって、芸術ではないのです。

 しかし、日常に生活していてそんなパッションというものを我々はどう扱っているでしょうか。心の波はなるべく立てないよう、心が荒れてもそれを表には出さないよう勤めているのが現実ではないでしょうか。

 仕事や学校生活を送る上では、自分の感情を素直に表に出すということは実にリスクを伴うものです。同級生にいちいち激怒の鉄拳をくらわせたり歓喜の抱擁をしてたら、間違いなくイジメられるでしょう。仕事中、営業先に断られるごとに悲しみのあまり泣いてたら、上司はどうクビを切るか考えるはずです。いや最近そんな議員もいましたけど。

 とかく私たちは心にフタをして、「相手が自慢話してきたら適当に相づちをうつ」などのような、「こういう事態になったらこういう風に対処する」という、決まりきったパターンで現実に向かい合うことに慣れきっているのです。それに対して自分自身の心で感じ、判断することは少ないのではないでしょうか。心を抑圧するうちに、やがて自分でもおのれの本心が分からなくなる。今自分は悲しんでるのか怒っているのか、良いと思ってるのか悪いと思っているのか?その歪みが頂点に達した時、心が壊れてしまう。

 これこそが、岡本太郎の嫌った「八の字文化」です。

 つまり、問題は芸術家だけの話でなく、現代人すべてが形式主義に染まっているのです。

 だからこそ、本当の意味での芸術、自分の情熱、自分の魂を解放する芸術を、現代人すべてが取り戻す必要がある。それこそが「今日の芸術」なのです。

 なら我々現代人も、何か絵を描いたり作品として残したり、踊ったり歌ったりしなくてはならないのか。いやいや、それこそが「芸術とはこういうもの」という形式主義にとらわれた思考に過ぎません。何も描かず鳴らさずとも、心の中にイメージを浮かべたり、心の中で音楽を奏でるのです。それによって自分の命が生き生きと輝くなら、それはもう芸術なのです。

 芸術とはモノでなく、自分の情熱が爆発するかのように溢れ出てくる姿のことなのです。だからこそ、「芸術は爆発」なのです。

 

 いつでも、他人にたいするおもわくに重点をおいて生活しているうちに、いつのまにか精神の皮が硬くなって、おのれ自身の自由感というものも忘れてしまい、他人の自由にたいしても無感覚になってしまうのです。おたがいどうしがポーズと型だけでつきあっているので、魂と魂がふれあうことは、もちろんありません。

………

 芸術の力によって、この不明朗さを、内から切りくずしてゆかなければなりません。芸術は、いわば自由の実験室です。実社会で、いきなり貫きとおすということは、いろいろな障害や拘束があって容易なことではありません。しかし芸術の世界では、自由は、おのれの決意しだいで、今すぐ、だれにはばかるところもなく、なにものにも拘束されずに発揮できるのです。

 (「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」岡本太郎

 

 以上のようなことを、目の前から語りかけてくるような言葉で著されたのがこの本です。私の紹介文などよりも、岡本太郎の文章を実際に読んだ方が、心に刺さる物が多いはずです。

 

 自習室内の岡本太郎の本は他にも「日本の伝統」があります。いずれまたこのコーナーで紹介するかもしれません。ここに無い本でも「自分の中に毒を持て」「壁を破る言葉」なども面白いですし、「沖縄文化論」なども民族学岡本太郎の作品としてとても面白い本です。

 どれも良い本なので、一読の価値ありです。オススメです!

 

  自分の自由な感情をはっきりと外にあらわすことによって、あなたの精神は、またいちだんと高められます。つまり芸術を持つことは、自由を身につけることであって、その自由によって、自分自身をせまい枠の中から広く高く推しすすめてゆくことなのです。

 (「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」岡本太郎