Rassvet 歩行編

久々にお手入れする上でちょいと模様替え。読んだ本とか行った場所について買いてくつもりです。

下学上達の本棚:第14回「山椒大夫・高瀬舟・阿部一族」森鴎外

「そんなら今一つお前に聞くが、身代わりをお聞届けになると、お前はすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか。」

 「よろしゅうございます」と、同じような、冷かな調子で答えたが、少し間を置いて、何か心に浮かんだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言い足した。

 佐佐の顔には、不意打ちに逢ったような、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面に注がれた。憎悪を浴びた驚異の目とでも云おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。

(いち、佐佐「最期の一句」森鴎外

 

 

 

 森鴎外の作品ってお好きですか。

 「舞姫」とか「高瀬舟」「山椒大夫」あたりを学校の教科書で読んだ、という方はけっこう多いのではないでしょうか。

 でも「舞姫」なんて現地妻つくって捨てる話だし、高瀬舟山椒大夫もなんか暗いし、なんか森鴎外って好きじゃないんだよな〜…という方も居ると思います。いや私のことですが。

 高校の頃に「舞姫」読んだときは、「故郷や国なんか捨てろよ!エリスと愛を貫けや!」とか思っちゃったりしたもんです。しかし「鴎外はバリバリのエリート武士の家系に、江戸時代に生まれた人である」ということを考えると、そんな一方的に裁く事はできないなあ、ということに気づきます。

 鴎外にとっては、生まれたばかりの明治日本という体制に忠孝を尽くすことこそが、生きる道であると考えたのでしょう。また「家」制度全盛期ですから、武士の森家を守って行く事も当然であると、その時代の上流階級としては刷り込まれているはずです。

 ただ、森鴎外本人は、すごく情愛の深い人なのです。有名なエリスとの話もそうですが、娘の森茉莉は本当に溺愛されたと書いてましたね。愛を注ぐと決めたら深く注ぐ人なのでしょう。

 それをふまえて、鴎外の作品は、「体制に従うことと人間的情愛の板挟み」で葛藤する姿に魅力があるのだと、ここ数年でようやく気がつきました。例えるなら「会社が大事なの?それともあたしが大事なの?」という奴ですね。

 

 で、その「体制に従って体制を守らなきゃ…でも感情は違う方を向いちゃうぞ」というテーマが如実に出ているのが、この文庫に収録されている高瀬舟です。

 

 舞台は江戸時代。弟殺しの罪を犯した下人を、京都の高瀬川を下って遠島の刑に処す役目となった町奉行の同心。小舟で川を下る中、同心は下人の嬉しそうな様子を不思議に思い、なにが嬉しいのか、なぜ弟を殺したのかを問います。

 

 下人が答えるには、今まで自分は身を粉にして働いてきたが、本当に金に縁がない生活をしてたので、遠島の受刑者に与えられるわずか二百文の金がすごく大金に思えて嬉しい。

 なぜ弟を殺したかというと、苦しい生活のなかで病気にかかった弟は、金がないので医者にみてもらうこともできない。弟は苦しみ抜いたあげく、自害しようと刃を立てた。しかし弱った力では死に切れなかったので、とどめを刺して楽にしてくれと自分に頼んできた。だから…と。

 それを聞いて同心は悩みます。

 この下人は、果たして犯罪者なのか?殺したのは確かなようだが、もともとすでに死ぬ間際、弟を苦から救うために行ったことを、罪であると簡単に裁いてよいのか?

 

 幕府の奉行所という体制が「罪である」と断じたものに対して、その体制に仕える同心の心は疑問をなげかけます。平たく言ってお上に逆らう行為です。

 鴎外はこのように、「頭では、体制に従わなきゃと考える。でも心は…」という葛藤を常に抱いていました。現代に生きる人間なら自分の気持ちを優先させるでしょう。

 しかし、鴎外の結論は、時代の中で生きる人間の悲しさを物語り、それがまた、私たちになにかを考えさせるのです。

 

 庄兵衛の心の中には、いろいろに考えて見た末に、自分より上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従う外ないという念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、其儘自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。

 (「高瀬舟森鴎外

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

 

高瀬舟

高瀬舟